和歌山市ゆかりの人物

 

ページ番号1001032  更新日 平成28年7月20日 印刷 

伝説の大臣 武内宿禰

写真:武内宿禰誕生井

日前宮を祀る紀伊国造宇治彦の娘と天皇家の皇子との間に生まれたのが、伝説の大臣・武内宿禰です。彼は景行天皇の時代に紀伊国名草郡で誕生し、成務・仲哀・応神・仁徳の各天皇に仕えたと伝えられています。特に神功皇后が朝鮮半島へ遠征する時には、軍事を補佐して功労があったといわれています。戦前では、天皇家に忠節を尽くし、4代の天皇に仕えた長命の人として、多くの人々からあがめられました。享保16年(1731)に彼の誕生地を捜し求めて、現在の和歌山市松原にある井戸を、彼が誕生の際に産湯を使った井戸であると考えられるようになりました。このため、紀州のお殿様に子どもができると、彼にあやかってその子が長命であるようにと、その井戸の水を産湯として使うことになっていました。

津田流砲術の祖 津田監物算長(1499~1567)

写真:紀伊国名所図会

紀伊国小倉庄の吐崎城主であった津田監物算長は、鉄砲を紀州に持ち帰った人物として知られています。江戸時代に編纂された「鉄炮記」によれば、天文12年(1543)ポルトガル人によって種子島に鉄砲2挺が伝えられましたが、いち早くこれに注目した算長は、このうち1挺を根来に持ち帰ったといわれています。
「鉄炮記」より後に編纂された「鉄炮由緒書」では、算長は根来西坂本の刀鍛冶・芝辻清右衛門に種子島由来の鉄砲の複製を命じたとされ、天文13年(1544)には紀州第1号となる鉄砲が誕生しました。その後、清右衛門は堺に居を移し、堺での鉄砲生産にも大きく寄与したのです。
ではなぜ算長は根来に鉄砲を持ち帰ったのでしょうか。実は、根来寺の子院の一つである杉之坊の院主は、算長の弟である明算だったのです。同坊は行人(僧兵)方の寺で、根来寺の中でも中心的な存在でした。津田家は、当時強力な勢力を持っていた根来寺に自家の子弟を出し、杉之坊の院主にしていたのです。根来寺では中国など外国製の陶磁器などが数多く発掘され、海外との交易の跡が窺えます。鉄砲が種子島に伝来したとの情報もいち早く根来寺に伝わったのかもしれません。勢力を拡大するために、強力な武器が必要だった根来寺はそれにとびついたともいえましょう。その一大仕事にかかわったのが津田監物算長だったのです。彼は永禄10年(1567)69歳で没しますが、後には津田流砲術の祖として仰がれ、その流儀は紀州藩をはじめ各地に受け継がれていきました。

雑賀衆のリーダー 雑賀孫市

写真:雑賀衆起請文

戦国時代の末期、現在の和歌山市を拠点として全国を駆け巡って活躍した鉄砲集団がありました。「雑賀衆」と呼ばれたその集団の有力な指導者の一人が「鈴木孫一」でした。彼の本名は「鈴木孫一重秀」であると伝えられていますが、当時の和歌山市周辺地域の呼び名を冠して「雑賀孫一」とも、居城があったとされる地域の名前から「平井孫一」とも呼ばれ、また文書には「孫市」と記述されることもあったようです。
天正4年(1576)、孫一率いる雑賀衆は、「木津川口の海戦」において大坂本願寺方として毛利水軍と共に織田信長の軍勢と戦い、これを打ち破りました。その後、天正5年(1577)には十万とも言われる信長の軍勢が雑賀の地に攻め込みますが、孫一らの巧みな戦術と鉄砲の威力の前に信長軍は事実上の撤退に追い込まれます。この際、孫一らが勝利を祝って踊ったのが、現在も紀州東照宮の祭礼として行われている「雑賀踊り」であると伝えられています。
この地域は、「日本最後の惣国」とも呼ばれ、戦国時代末期まで地域住民による自治が広く行われてきました。天正13年(1585)、豊臣秀吉による太田城水攻めにより雑賀惣国もその輝きを失うこととなりますが、雑賀孫一をはじめとする雑賀衆の活躍は今も多くの人々の心を捉えてやみません。
 

御三家紀州藩の藩祖 徳川頼宣(1602~1671)

イラスト:頼宣初陣の図

徳川頼宣(とくがわよりのぶ)は、徳川幕府を開いた徳川家康の第10子として、京都の伏見城で生まれました。その翌年には、早くも水戸20万石を与えられ、慶長14年(1609)に駿河50万石を与えられ、駿府城に入りました。しかし、父家康が死に、宿敵の豊臣氏がほろんだ後、兄で第2代将軍の秀忠(ひでただ)の命令で、紀州と伊勢の一部を含めて55万5000石を拝領して、和歌山城に入ります。ここに、尾張・水戸・紀州の徳川御三家が成立するのです。彼は、父・家康の戦国武将としての気質を受け継ぐだけでなく、豊臣家滅亡後に訪れた平和な時代を敏感に感じ取っていたようです。
紀州に入国した彼は、まず食糧増産のために新田開発の候補地を家臣たちに提出させました。その候補地の一覧表の中に、古代以来の名勝地である和歌浦が含まれていました。それを見た頼宣は、一時の利益のために名勝の和歌浦を開発して台なしにしてしまっては、末代までばかな殿様だと言われかねない、だから和歌浦は絶対むやみな開発をしてはならないと命じました。このように、彼は戦国を生き抜いた気骨ある武将であるとともに、平和な時代に対応することのできる文化的な素質をも兼ね備えた名君であったといえるでしょう。

紀州が生んだ幕府中興の祖 徳川吉宗(1684~1751)

イラスト:吉宗騎馬の図

藩祖徳川頼宣(よりのぶ)の孫で、第2代藩主光貞の第4男として、紀州和歌山で生まれました。ですから、幕府を開いた徳川家康の曾孫に当たります。彼の三人の兄が次々と病気で死んだため、宝永2年(1705)に第5代紀州藩主になりました。さらに、彼が紀州藩主になった時の将軍は第5代徳川綱吉(つなよし)でしたが、彼が宝永6年に死亡すると、彼の甥の家宣(いえのぶ)が将軍になりましたが、彼も3年後の正徳2年に病死し、その子どもの家継(いえつぐ)がわずか4歳で第7代将軍になりました。しかし、その家継も享保元年(1716)に急逝したため、将軍の後継者が幕府内部にいなくなってしまいました。
そのため、御三家から跡継ぎが選ばれることになりましたが、徳川家康との血縁関係の親疎から、紀州藩主徳川吉宗が選ばれ、彼は享保の改革を断行して、幕府を建て直しました。紀州藩主継職といい、将軍継職といい、吉宗の周辺は幸運が作用したといえるでしょう。しかし、彼のこの出世は単なる幸運だけではありませんでした。吉宗が紀州藩主になったころの紀州藩の財政は、非常に苦しいものでした。彼は藩主になると、約10年間でその財政を見事に建て直しました。その頃、貨幣経済が発達する中で、どの藩でも財政状況は破綻の状態でした。しかし、吉宗は倹約と米の増産によって、紀州藩を復活させたのでした。兄や将軍の死があったとしても、彼に紀州藩財政再建の実績がなかったとしたならば、彼が将軍の座を射止めることはできなかったでしょう。その意味で、開明的な紀州人の気質を持っていたが故に将軍になり得たのだと言うこともできるでしょう。

国学の大成者 本居宣長(1730~1801)

イラスト:本居宣長

本居宣長は、伊勢国松阪に生まれました。当時日本の古典研究で有名な賀茂真淵に師事し、日本の古典研究を手がけ、後には国学の大成者として評価されるようになりました。天明7年(1787)に紀州藩第9代藩主徳川治貞に、窮民救済の施策を提言し、翌年には為政者の心得を記した『秘水玉くしげ』を献上しました。
寛政4年(1792)、治貞のあとを継いだ10代藩主治宝によって、彼は松阪在住のままで紀州藩に召し抱えられました。以後、和歌山をたびたび訪れ、この地で多くの門弟を育てました。とくに、彼のあとを継いだ養子の本居大平は、和歌山に移り住み、この地に国学の和歌山派と称するほどの門人を組織し、隆盛をもたらしました。
当時の日本は鎖国下でしたが、儒教が社会規範の主流でした。宣長はそれらが日本に入ってくる以前の「日本人の心(やまとごころ)」を、『古事記』や『万葉集』という日本古典のなかに求めようとしました。その代表的な業績は、35年間を費やした日本最古の古典・『古事記』の詳細な研究書である『古事記伝』です。

麻酔薬 「通仙散 」を開発し日本で初めて乳ガン手術に成功 華岡青洲(1760~1835)

イラスト:華岡青洲

華岡青洲(はなおか・せいしゅう)は、みずから開発した麻酔薬「通仙散」(つうせんさん)を使って乳ガン手術に日本で初めて成功した人です。 彼は那賀郡西野山村(現・那賀町)の南蛮流外科医である華岡直道の子として生まれました。
23才の時、医学の勉強のため京都に行き、内科を吉益南涯に、オランダ流外科を大和見立に学びました。この頃、ようやく日本の医学界も理論ばかりの観念的な医学から、実験を重んじる実証的な医学へと動き出そうとしていた時期で、人体解剖なども行われ、「解体新書」も出版されていました。
彼は帰郷後、当時、不治の病とされていた乳ガンに着目し、その摘出手術のため劇薬とされていたマンダラゲを主成分とする麻酔薬「通仙散」を開発しました。とくに麻酔薬開発過程でマンダラゲの分量を変えながら科学的な臨床実験を行ったことは、近代医学のパイオニアといわれる点です。 この過程で母や妻が人体実験に協力する話は、和歌山市出身の有吉佐和子の「華岡青洲の妻」で有名です。ついに文化元年(1804)、「通仙散」を使った乳ガン手術に成功するのです。成功後、彼の名は一躍全国に伝わり多くの病人や医学を志す人々が医学校兼病院である「春林軒」に集まってきました。 また紀州藩10代藩主徳川治宝(はるとみ)の奥医師ともなりました。春林軒を卒業する門人に彼みずから漢詩(写真)を与え医の心得を諭しました。要約すると「良い服を着たり、立派な馬に乗ったりするのでなく、つねに思うことは今までに治せなかった病気を治すことだけである」と言っています。 春林軒を卒業した門人たちは幕末から明治にかけての日本医療を支えた人達なのです。
 

近代日本外交の中心人物 陸奥宗光(1844~1897)

写真:陸奥宗光

陸奥宗光は、天保15年(1844年)に紀州藩重臣伊達千広の第6子として現和歌山市吹上三丁目に生まれる。文久2年(1862年)に紀州藩を脱藩し、翌年勝海舟の主宰する海軍塾に入り坂本龍馬と知己を得る。その後、龍馬と行動を共にし討幕運動に奔走する。

明治11年(1878年)には立志社陰謀事件に連座して収監されるが、同16年出獄して外遊後、外交官として活躍する。同21年にはワシントン在勤を命じられ、全権として日墨修好通商条約の調印に成功する。この日墨修好通商条約は、宗光とロメロ駐米メキシコ公使との間で協議された条約で、近代日本国家が諸外国と締結した最初の平等条約であった。すなわち、この条約が日本の国際社会における平等外交の始まりであると評することができる。

明治23年の第1回総選挙で和歌山第一区から出馬して当選、第二次伊藤博文内閣では外務大臣として不平等条約の改正に尽力し、同27年ロンドンで日英通商航海条約を調印する。これによって、治外法権撤廃と関税自主権の一部回復に成功する。

さらに翌年、下関で日清戦争講和条約調印全権団として臨み、日本で最初の対外戦争の戦後処理を行う。この調印直後、体調を崩し、以後大磯の別荘で療養生活を送る。宗光は、藩閥政府と揶揄される政府内にあって、紀州藩出身の官僚として不動の地位と多大な業績を残した。

明治30年8月24日死去。浅草海禅寺で葬儀が行われ、同年11月、大阪夕陽丘に葬られる。

その業績を称え、現在、外務省敷地内、和歌山市岡公園に陸奥宗光の全身像が建てられている。

博物学者で近代日本の独創的思想家 南方熊楠(1867~1941)

写真:南方熊楠デスマスク(岡田一男氏寄贈)

南方熊楠は、明治維新直前の慶応3年(1867)に商人の子として和歌山城下橋丁で生まれました。 幼少の頃から熊楠は、東洋の博物学である本草学をはじめとした、多くの書物をかたっぱしから書き写しました。また、動植物の採集のため近くの海や山にでかけて行き、時には熱中するあまり数日間行方不明になったこともあったといいます。 その写本や標本は今も残っていますが、熊楠のエネルギーには驚かされます。書籍をひたすら筆写したり、自ら採集した品を標本にして図記する勉強スタイルは、これ以後一生続けられました。 熊楠は和歌山中学を卒業して東京大学予備門に入学しますが、中退してアメリカやイギリスに渡り、独学で勉強を続けます。彼の研究は、博物学、植物学、民俗学、宗教学等といった多くの分野にわたりました。
帰国後、彼は田辺に居をかまえます。定住まもない熊楠を襲ったのが、神社合祀の嵐でした。神社合祀とは、一町村一神社を基準に、神社を整理統合しようという国の政策です。和歌山県では3700以上あった神社が、600余りに整理されました。熊楠はこれに反対し、推進派の県の役人に信玄袋を投げつけて、警察に抑留されたこともありました。 熊楠は、神社の森が彼の研究の場であるということだけでなく、自然生態系を守るために神社合祀に反対したのです。 また、彼は神社とその境内が地域社会において持つ多面的な役割を強く主張しました。熊楠は今日的意味でのエコロジーや地域主義の先駆者であり、近代日本の独創的思想家として高く評価されています。

近代産業界の発明王 松下幸之助(1894~1989)

写真:松下幸之助写真

松下幸之助は、明治27年(1894)に和歌山県海草郡和佐村(現和歌山市禰宜)で8人兄姉の末子として生まれました。家業の関係で大阪に移転後、火鉢屋の丁稚、自転車屋の店員を経て、電燈会社に就職し、業務のかたわらソケットを改良し、大正7年(1918)に松下電気器具製作所を創立し、アタッチメントプラグ・自転車用ランプ・電気アイロンなどを発明・改良して事業を拡大しました。彼の製作した製品は、一般大衆の生活に身近なものをより便利で、安価にすることに注意が払われていました。ですから、近代化が進む日本社会の、最も購買層の厚い庶民に受け入れられたことが、事業成功の秘訣であったといえましょう。その後、彼の築いた会社は、世界をリードする家電メーカーに成長しました。
松下幸之助は、世界を代表する実業家・発明王になり、昭和31年(1956)には紺綬褒章・藍綬褒章を、昭和40年には勲二等旭日重光章をうけました。また、ふるさと和歌山に対しても、和歌山城の再建・紅葉渓庭園の整備・体育館の建設など、戦後の復興と再建・発展に大きく寄与されました。これによって昭和35年に和歌山市は、松下幸之助に名誉市民の称号を贈り、その功績を今もたたえています。

小説『紀ノ川』の作者 有吉佐和子(1931~1984)

写真:紀ノ川風景

女流小説家・有吉佐和子は、和歌山県海草郡木本村(現和歌山市木本)で生まれました。昭和27年(1952)に東京女子大学短期大学部を卒業したころから、同人雑誌に作品を投稿するようになりました。昭和31年に「地唄」が芥川賞候補になると、その文筆活動は、全国的に注目されるようになり、昭和33年に義太夫「ほむら」で芸術祭文部大臣賞を受賞しました。
彼女の代表作は、「紀ノ川」・「有田川」・「華岡青洲の妻」・「助左衛門四代記」など、紀州の風土を舞台にした小説です。それらの小説の中では、紀州の山河を舞台にし、紀州人らしい紀州人がたくましく活躍します。そして、それらの紀州人は、美しい紀州弁で会話を交わしています。とくに代表作の「紀ノ川」は、大正・昭和初期の紀州出身の政党政治家の動きを縦軸に、それを支える家庭と女性の動きを横軸にして、戦前期日本の地方社会の実像を細やかに描き出しています。晩年、「恍惚の人」や「複合汚染」など社会問題を取り上げた作品を多く手がけますが、いずれも弱者の視点を据えています。それは、やはり紀州の風土が育てた温和で心優しい気質が影響しているのかもしれません。

紀州の本草学の大成者 畔田翠山(くろだすいざん)(1792~1859)

イラスト:畔田翠山

本草学(ほんぞうがく)は古代中国に起源をもち、自然物を生活に役立てることを目的とする学問です。とくに、薬物学を中心に自然科学があつかうすべての分野を含めた学問です。江戸時代、生活に役立つ学問の欲求が高まる中、本草学がさかんになります。それは八代将軍徳川吉宗(紀州藩五代藩主)の自然産物や本草好きによるところが大きいと言われています。もちろん紀州の本草学も吉宗によって種子が蒔かれ、紀州藩士小原桃洞(1746~1825)によって育まれていきます。その門人の一人が畔田翠山です。翠山は寛政4年(1792)、和歌山湊南仲間町(現・和歌山市)に生まれます。紀州藩十代藩主徳川治宝(とくがわはるとみ)によって医師として抱えられ、和歌山だけでなく、畿内・北陸方面など、各地の物産調査や採薬などをおこないました。
彼の著書に有名な『水族志』(すいぞくし)があります。これは日本最初の総合水産動物誌で、従来の本草学者がおもに植物の研究に力を入れていたのをさらに発展させ、水産動物735種を鱗のある魚・ない魚など、形態や各地の方言、和漢の書籍を引用し、実地の調査をまとめあげています。そのほか江戸時代の百科事典とも言うべき『古名録』(こめいろく)など、彼の実証的で、地方の動物誌・植物誌を学術的にまとめあげた研究は、従来の本草学から水産動物等にまでおよび、本草学を博物学へと発展させていったのです。

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